神功皇后の存在は本当になかったのか?
本日2021年12月17日。
古事記や日本書記については日本の「神話」とされており、学校の歴史授業では習うことはほとんどありません。
多くの歴史学者がそうなのかはわらかないのですが、「神話」=「逸話」とされているようです。
私も最近までは、古事記や日本書記はあることは知っていましたが、読んだこともなく詳細は全く知りませんでした。
そして、今の歴史教育では人類の成り立ちはダーウィンの進化論を元に猿人から進化されてきたと言うのが現在の定説です。
果たして、これは本当なのでしょうか? 正直これで「間違いない」とされ、暗記メインの歴史教育にはかなり問題があると認識しています。
せっかく暗記してもそれが真実でなかったとしたら、どうなんでしょう?
単なる迷信を刷り込まれていると言っても過言ではないわけです。
私の考えですが、「こんな意見もあるよ」「あんな意見もあるよ」と言う具合にして、その色々な説を学生に討論してもらうほうが、よっぽど良い教育ではないでしょうか?
子供にはとにかく「考えさせる」と言う教育の方が望ましいと思います。
そして教師は決して、今でもはっきりしない歴史については「決めつけない」と言うのが私の希望です。
さて、本題に入ります。
神功皇后については、かなり賛否両論があるようで、これについてこのブログで語りたいと思います。
戦前の歴史教育では、古事記や日本書記を元に教育をしてきています。
今回紹介する神功皇后は明治14年に初めて女性を描いた紙幣として発行されたこともあります。
実はその昔、仲哀天皇陵に行ったことがあります。
現在の恵我長野西陵(岡ミサンザイ古墳)と呼ぶようですね。Wikipediaによりますと。
この仲哀天皇について歴史学者は「実在性は定かではない」と言っているそうです。
しかし古事記によりますと仲哀天皇陵は「「河内恵賀之長江」の所在にあると記載されているそうです。
この「 河内恵賀之長江 」とはどのあたりになるのか、調べてみました。
藤井寺市のこの辺は河内地域であり、現在では南河内の地域になります。
近鉄南大阪線が通っており、藤井寺駅の近くに恵我之荘駅があります。
この「恵我之荘」の名称からこの地域一帯は恵我之長江の地域だったんだろうとも考えられます。
仲哀天皇の実在を何故否定する歴史学者がいたりするのでしょうか?
それは、恐らくこの「神功皇后」が存在していては、厄介と判断する学者がいるのではないかと推察してしまいます。
何故なら、この「神功皇后」で有名なのは、「三韓征伐」があるからです。
日本書記では、この神功皇后の巻があるそうです。
この日本書記は歴代天皇毎に巻があるのですが、皇后でありながら巻があるのは、珍しいのだそうです。
それぐらい重要人物と言うことになります。
神功皇后の名前は「気長足姫尊」と言う別の名前があったそうです。
読み方は「オキナガタラシヒメ」と読むそうです。
ここで神功皇后の生まれについて話をします。
父親は息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)、母親は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)なんだそうです。
Wikipediaによりますとこの母親である 葛城高顙媛 (かずらきのたかぬかひめ)は、天之日矛(アメノヒボコ)の子孫なんだそうです。
この 天之日矛(アメノヒボコ) は日本に来た渡来人で自称新羅の王子だったそうです。
仲哀天皇には既に皇后がいたそうですが、この 「気長足姫尊」 (神功皇后)はとても美しく皇后にされたそうです。
この仲哀天皇の父親であるヤマトタケルの東征と西征が日本書記に出てきます。
熊襲は今の南九州の地方にあたるそうです。このヤマトタケル時代に九州、東海、関東、東北まで征服して大和朝廷の支配下になります。
ところが、仲哀天皇の時代になっても熊襲は朝貢せず度々反発していたそうです。
そこで仲哀天皇と神功皇后は筑紫(現在の福岡市)の橿日宮(かしいのみや)後の香椎宮に行くことになるんだそうです。
そして仲哀天皇はそこで亡くなります。
神宮皇后は既に仲哀天皇の子供を身ごもっていました。
そして新羅は降伏します。
その後、百済、高句麗までも神功皇后の軍勢に勝つことができないと判断し、降伏したと日本書記に書かれているんだそうです。
神功皇后は筑紫(現在の福岡市)に戻り、子を産みます。応神天皇です。
この神功皇后の「新羅征伐」は、戦前の皇国史観では「三韓征伐」と呼んだのだそうです。
あくまでも「古事記」と「日本書記」からの話です。
これが真実かどうかは、わかりませんが、実際に神功皇后はいたのでしょうと言うのが私の個人的な見解です。
名前があるぐらいですから。だから歴史教育から抹殺するのではなく、このような話が日本の古代の書物に残っていると言う事実として、教えれば良いわけです。
それが真実かどうかまだ解明できていないと付け加えて。